2019年10月2日

舞台芸術部門総合ディレクター 宮城 聰 『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~東アジア文化都市2019豊島バージョン』について



舞台芸術部門総合ディレクター・宮城 聰が、「東アジア文化都市2019 豊島」で満を持して上演するのは、古代インドに伝わる『ナラ王物語』に日本の平安文化を掛け合わせた自身の代表作『マハーバーラタ』の豊島スペシャル・バージョン。池袋西口公園に誕生する円形野外劇場のこけら落とし公演でもある、同作に込める想いと新たな構想、さらには協働する3人の事業ディレクターのクリエイションについてお話を伺いました。


── 宮城さんは東アジア文化都市に関わる以前から、芸術総監督を務めていらっしゃるSPAC-静岡県舞台芸術センターでの「ふじのくに⇄せかい演劇祭」の他、1994年から韓国・日本・中国が持ち回りで開催している「BeSeTo演劇祭」など、参加だけでなく国際演劇祭の運営にも豊富な経験をお持ちです。

宮城聰(以下、宮城) 仰る通り、特に「BeSeTo演劇祭」には初期から運営委員として携わったうえ、99年には事務局長をお引き受けすることになりまして。参加交渉から海外カンパニーのビザ取得まで、演劇祭の裏の裏までを知る数々の貴重な経験をしました。ビザがギリギリまで下りず肝を冷やしたことなど、20年前とは思えぬほど鮮烈な記憶です(笑)。

当時と今を比べると、中国・韓国の経済力が飛躍的に高まっている一方、政治的な三国の関係性はあまり変わっているとは言えません。それは、「政治と文化の役割分担があまり変わっていない」と言えると思います。

20年前は日中韓三国のトップが同じテーブルに付く機会、接点さえありませんでした。せめて文化でその回路を開いていこう、という想いからBeSeTo演劇祭は立ち上げられたのですが、その後の20年で三国の経済的相互依存はすっかり深まったにも関わらず、政治的軍事的な溝は、経済的にどれだけ繋がっても変わらずに存在している。

経済的な相互依存があれば、世界から戦争がなくなるかと言えば、全くそんなことはないと過去の歴史からも証明されています。それを埋め、溝を乗り越えるための唯一の方法、国と国とを結ぶ水路を文化や芸術でつくることの重要性は、増しこそすれ減ることはない。むしろ「願い」や「祈り」のような、切なるものになっているのではないでしょうか。

── 特に最近は、日々の報道でもそのことを裏付けるニュースが流れ続けている感があります。

宮城 経済上の相互依存が高まると、あたかも国と国とが同じ土俵に立っているような錯覚に陥る。一つのスマートフォンが、異なる三国で作られたパーツを搭載しているからといって、それぞれに作る人々が同じ価値観を持っているかと言えばそうではなく、各国の人々が本当に何を大切にしているかは、経済上の交流だけでは分かり得ません。けれど文化芸術での交流ならば、お互いがいかに異なる価値観を持っているかを再確認することができる。あるいは互いを新たに知る機会にもなる。その点でも東アジア文化都市という企画は、今非常にタイムリーかつ意義深いものになると思っています。

── この機会に、2003年から国内外で上演を重ねるご自身の代表作『マハーバーラタ』の上演を決断されたのは、どんな意図からなのでしょうか?

宮城 実は、それほど周到に考えてのことでもないんです(笑)。2014年にフランスのアヴィニヨン演劇祭に『マハーバーラタ』が招聘された際に、野外のブルボン石切り場でサークル状の舞台装置を用いて上演し、以降も同様の舞台での公演を続けてきたのですが、今回新たにできる野外劇場グローバルリングの直径が、『マハーバーラタ』のサークル状の舞台装置とほとんど同じだったのです。

── 場に作品が呼ばれたようですね。

宮城 それに『マハーバーラタ』の根本には、東アジア文化都市の理念と重なるものがあると思うんです。先ほど「経済の相互依存が進むことで、国や人種を超えた他者と自分の勘違い的な同一視が起こりがちだけれど、芸術の場では互いがいかに異なるかを気づかせてくれる」という話をしましたが、後者においては、殊にアーティストは他者の文化を自らの文化と出会わせ、日本の場合は自分たちがもともと持っている言語や気候・風土など変えようのない“日本的なるもの”に単に吸収・翻案してしまうのではなく、そこにある違和感、私たちが「不思議だ」と感じる部分をきちんと残さなければいけないのではないか、と。そのうえで自分たちの表現ができるか、そこが闘いどころと思うんですよね。

その“コツ”として僕が考えるのは、例えば『マハーバーラタ』であれば、原典が伝わるインドの人々がこの作品を観た時に腹を立てないか、喜んでくれるだろうかと創作中検証し続けること。これはどんな戯曲、小説を取り上げる時も同様ですし、例えば1000年前の自国の古典作品を取り上げる時も、同様の配慮はあって然るべきでしょう。

── 確かに、日本の平安人と21世紀を生きる私たちとではまるで違う人種でしょうから。

宮城 お互いなんとか理解しよう、歩み寄ろうとしながらも譲れないもの、納得しかねることが異文化同士の間には必ずある。その「違和感」を創作過程から上演まで忘れないこと、自分たちに都合よく消化してしまわないこと。それは相手の文化に対して失礼になりますから。

── 『マハーバーラタ』は、“古代インドの国民的叙事詩が日本の平安時代に伝わっていたらどうか”という着想の元につくられた作品。外と内、二つの異なる方向に尊重すべき文化・表現を持つのですね。

宮城 さらに今回上演することにより、「古代インド×日本の平安時代」という僕らの演劇的実験に、「21世紀の池袋」という都市の混沌をぶつけ、さらなる化学反応を目の当たりにすることになると思うのです。加えてご覧になる方々の中には、3つの文化とはまた違うバックグラウンドを持つ方々も少なくないはず。多様かつ多彩な人と文化が集まる、今のるつぼのような池袋の空気を楽しむ仕掛けを『マハーバーラタ』を通して生み出すことができれば、分断を乗り越える手がかり、一つの希望が見えて来るのではないかと考えているのです。

国内外の大都市圏では、異なる人種・文化の人々が共生しているかのように見え、実は自らのアイデンティティを守るため、細かく居住区や教会などを分ける無数の境界線を引きながら暮らしている。でも、人との「違い」にアンカー(錨)をかけて自らを保とうとしている状況下では、排外主義の大波が起きた時など抗えない。「違い」こそかけがえがないと認め合い、るつぼの中に居ることを楽しみ誇れるようになれば、分断の縫合に可能性が出て来る。そのための「場」に『マハーバーラタ』がなれるなら、演劇人みょうりに尽きますね。

── 舞台装置はこれまでに準じるとして、演出面で新たに考えていることはあるのでしょうか?

宮城 実はこの作品は、僕からすると“演出家の手を離れている”感があるのです。素晴らしい上演になるかどうかは、俳優たちがその場で何を感じながら演じるかにかかっている。2015年に駿府城公園で初めて上演した際も、最初は手応えがあまりないように思えたのは、俳優たちが場所に何も感じられなかったから。でもリハーサルを進めるうち、公園のあちこちに「何かウヨウヨいるゾ」と俳優も僕も感じるようになってきて、上演場所における日常を超えたもの、聖なるものとの出会いが必要になっていった。

グローバルリングは出来立ての、まだ何にも染まっていない場所ですから、最初は僕らも苦労すると思います。でも反面、劇場を取り巻く街の混沌は、これまで上演したどこにも増して濃密なはずですし、人間が多く集まる大都市圏ならではの聖性への渇望、日常を超えた至高なるものへと繋がる意識の集約があると僕は思っているんです。

俳優が、そうした人々の精神的な渇きや願いを感じられるようになれば良い上演になるはずですし、俳優が感じたそれらは観客にも感じ・見えるものとなる。そこに手が届けばいいなと思っています。

── 都市の混沌はむしろ、インドの神々の荒ぶる本質に呼応するかも知れませんし。

宮城 インド発祥だけれど宗教や文化を越境して、変幻混淆している神も数多くいますから、るつぼは望むところではないでしょうか。また求める人間の願いによって神の相貌も変化しますから、『マハーバーラタ』も同様に、この上演で新たな側面を見せてくれるのでは、と思っています。

またこの作品が上手くいくと、ラストに観客の「願い」のようなものが場全体で共有される空気になるんです。「地上には本当に色々なヤツがいるけれど、共存は不可能ではない」という夢のようなことがその場の全員に垣間見え、幕が下りる。それが実現したらいいですね。

── 折角の機会なので作品だけでなく、共に舞台芸術部門を支える3人のディレクターと創作についても、宮城さんがどう捉えていらっしゃるか伺えますか。

宮城 日中韓どの国でも、「こういうモノをつくれば儲かる」という原理から生まれる舞台芸術やそのための共同作業は放っておいても進んでいくはず。そんな流れの中では手が届かない、もしくは誰も手は出さないであろうこと、取り残されてしまうことが何かを考えられるアーティストに、今回集まっていただけたと思っています。本当はあったほうが良いけれど、まだディマンド(需要)がないところを文化芸術を用いて耕す感性と知恵、勇気を持った方々と言ってもいいでしょう。

石神夏希さんの『Oeshiki Project』は、江戸時代から伝わる鬼子母神を祀る祭事・御会式が題材です。鬼子母神のルーツはインドであり、それが中国から朝鮮半島を経て日本へと渡ってきたもの。国の外から入ってきたものは神であれ文化芸術であれ、もとの思想の一部を残しながら大部分は土着化して根付く場合が多く、石神さんはよくよく見ると残っている「違和感」にフォーカスしたアート・プロジェクトを進めてくれていると思っています。

多田淳之介さんが進める『アトカル・マジカル学園』は、ディマンドとして浮上して来ない、むしろ皆が社会の中で諦めている部分に働き掛ける企画。今日の経済原理からは外れているけれど、国際芸術祭を開催するアート・カルチャー都市である豊島が、スペシャルな機会の今だからこそ取り組むべき課題、アートを介して生活を見直すきっかけが詰め込まれており、日常の中にどれだけアートが浸透できるかの小さくて壮大な実験場になるのではないでしょうか。

市民参加での創作に秀でた近藤良平さんの面白さは、アーティストとしての視点が、日本を外から見ているように感じられるところ。豊島や池袋に関しても、親しく近しく接すると同時に「他者の視点」を持ち続けるから、人や街を面白がって素材にし、作品化できるのだと思います。コンドルズ×豊島区民『Brideges to Babylon ~ブリッジズ・トゥ・バビロン~』もそんな、「他者の視点」から立ち上がり、芸術祭に心地よい外の風を吹かせられるはず。同時に豊島の人々が、それまで自身だけでは気づけなかったシヴィック・プライドを獲得する機会になればいいな、と思っています。


文・大堀久美子
写真・林亮太


舞台芸術部門総合ディレクター 宮城 聰
1959年東京生まれ。演出家。SPAC-静岡県舞台芸術センター芸術総監督。東京芸術祭総合ディレクター。東京大学で小田島雄志・渡辺守章・日高八郎各師から演劇論を学び、1990年ク・ナウカ旗揚げ。国際的な公演活動を展開し、同時代的テキスト解釈とアジア演劇の身体技法や様式性を融合させた演出で国内外から高い評価を得る。2007年4月SPAC芸術総監督に就任。自作の上演と並行して世界各地から現代社会を鋭く切り取った作品を次々と招聘、またアウトリーチにも力を注ぎ「世界を見る窓」としての劇場運営をおこなっている。2017年『アンティゴネ』をフランス・アヴィニョン演劇祭のオープニング作品として法王庁中庭で上演、アジアの演劇がオープニングに選ばれたのは同演劇祭史上初めてのことであり、その作品世界は大きな反響を呼んだ。他の代表作に『王女メデイア』『マハーバーラタ』『ペール・ギュント』など。2006〜2017年APAFアジア舞台芸術祭(現アジア舞台芸術人材育成部門)プロデューサー。2004年第3回朝日舞台芸術賞受賞。2005年第2回アサヒビール芸術賞受賞。2018年平成29年度第68回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

Photo © 新良太