2019年7月25日

古川タク マンガ・アニメ部門 総合ディレクターのトキワ荘の記憶



手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫など、のちに日本のマンガ界を牽引したマンガ家たちが居住し、切磋琢磨しながら青春時代を過ごした木造アパート「トキワ荘」。“マンガの聖地”と呼ばれるトキワ荘があった豊島区南長崎では、8月から謎解きウォークラリー『トキワ荘の記憶 消えたフクロウを追え!!』が開催されます。マンガ・アニメ部門総合ディレクターをつとめ、少年時代には手塚治虫に憧れていたという古川タクさんに、当時のマンガ界の様子についてお話を伺いました。


──今でこそトキワ荘は“マンガの聖地”として広く知られていますが、いつ頃から“聖地”と言われるようになったでしょうか?

古川タク(以下、古川) 「そんなすごい場所があったんだ!」と、みんなに知られるのは、70年代に藤子不二雄さんが『まんが道』を描かれたあたりからですね。僕はトキワ荘に暮らしていたマンガ家さんたちの少し下の世代ということもあり、トキワ荘のことを知ったのは60年代くらい。なので、そんな昔から知っていたわけではないんですよ。でも今と違って当時のマンガ雑誌には「○○先生にはげましのお便りを出そう!」って作家の住所が書いてあって。手紙もいっぱい届いたと思いますが、中にはトキワ荘に来ちゃう人もいたんじゃないかな。

──個人情報が雑誌に掲載されていたなんて、今ではありえない話ですよね。

古川 当時は有名人の自宅の住所とかも載っていました(笑)。僕が小学生の頃には『少年クラブ』『少年』『おもしろブック』『漫画少年』といったマンガ雑誌があって。小学校3年生のときにヒゲオヤジの絵と「マンガが好きな人、お便りください」と書いたものを『少年』の投稿欄に応募したら掲載されて、三重県の家に全国からハガキや封書郵便が届いたことがありました。封を開けてみたら僕よりも年上の中学生くらいの人たちが、みんなガラスペンやつけペンでマンガを描いていて、僕が投稿した絵よりもずっと上手なんですよ。

あと高知県から回覧式の同人誌が届いたこともありましたね。自分が描きこんだら、住所が記載されている次の人に送るというものだったのですが、鈴木伸一さん(編注・アニメーション作家、監督。トキワ荘に居住し、藤子不二雄作品に登場するラーメン好きのキャラクター「小池さん」のモデルとなった人物)に聞いたところ当時けっこう流行っていたみたいです。この頃に中学生くらいだった人たちが『漫画少年』の投稿世代だと思うのですが、僕はまだまだ小学校低学年だったから、彼らを見て育ったという感じです。あとから知るのですが、横尾忠則さんや篠山紀信さんも『漫画少年』の投稿欄に応募していたそうですよ。

──クリエイションに興味を持っていた人は、みんなマンガを読んで描いていたのですね。
古川 マンガを読んで、映画を見て、あとは空き地で遊ぶ。その3つくらいしか当時は娯楽の選択肢がなかったですから。僕らの世代でイメージビジュアルの仕事についている人は、マンガと映画にうるさいですよ。今、「G9+1」というアニメーション製作グループに関わっているのですが、お酒を飲むとだいたいマンガと映画の話になって、みんな細かいところにすごくこだわるから「おまえ、それは違うぞ!」みたいな話になって面白いです。

──古川さんは手塚治虫さんに憧れて、学生時代にマンガを描かれていたそうですが、初めて読んだ手塚作品は何でしたか?

古川 『タカラジマ』ですね。短い横見開きの絵本スタイルの作品で、僕の兄も手塚治虫さんが大好きだったので、旅行のお土産として買ってきてくれたんですよ。同じ頃に『少国民新聞』(現在の毎日小学生新聞)大阪版で連載がスタートした『マァチャンの日記帳』という4コママンガも読んでいたので、手塚さんの作品は本当に最初から読んでいました。

──当時は今ほどマンガが文化として見なされていなかったと思いますが、よく親御さんが色々と買い与えてくれましたね。

古川 でも全部を買っていたわけではないですよ。雑誌は『おもしろブック』と『少年』を僕は買っていたものの、手塚さんの作品はどの雑誌でも連載されているから「この作品は友だちが買っている雑誌を借りて読もう」ってしていましたし。手塚さんたちのマンガは大阪版スタートの作品が多いのですが、僕は家が三重県だったこともあり、けっこう読めたんですよね。それこそ「今度は“手塚”じゃなくて“足塚”っていうのが出てきたぞ!」となったり。

──藤子不二雄さんたちの旧ペンネームである足塚不二雄ですか?

古川 そう、その頃から藤子不二雄さんたちの作品も読んでいました。そんなに歳は変わらないのに、彼らはもうプロのマンガ家になっていて、僕はまだ子どもの読者でしたね。

──トキワ荘に集まったマンガ家さんしかり、ものすごい才能を持った若手が、なぜあの時代に集中して登場したのか不思議に感じます。

古川 ひとつには戦後にアメリカ文化が入ってきたことがありますよね。雑誌やマンガの文化、映画、放送、ジャズをはじめとする音楽……文化庁メディア芸術祭などに僕は関わっていますが、現在のポップカルチャーと呼ばれるものは戦後の1945年頃から色々と始まったと感じます。あと、やっぱり戦争でブッツリと世代が変わったのかもしれないです。テレビ界にしろデザイン界にしろ、今思い出すとどの分野でもとにかく若い人が活躍していましたから。みんな20代から頭角を現して、30代には大御所になっていた。そう考えると、戦時を生き延びた世代の方々も立派ですよ、彼らが文化を復興させて下の世代を育てようと考えていたからこそ、色々な才能が育ったのだと思います。

僕が高校生になる1950年代後半には、文藝春秋が大人向けのマンガ本を出版したり、写真の雑誌が創刊されたり、テレビやテレビコマーシャルといったイメージビジュアルの文化が生まれて、選択肢が広がり、写真家になる人もいれば、テレビの放送作家になる人も出てきて。僕は“大人漫画”やアニメーションに興味を持ったからマンガ家を志した人とは違う道をいったのですが、やっぱり根っこにあるのは手塚治虫さんのマンガだと思います。『メトロポリス』『来るべき世界』『ロストワールド』の初期SF三部作といった作品で手塚さんのことを神様みたいな存在だと感じていましたし、手塚作品を通して知ったことも多い。そう思うと、手塚さんは本当にすごい存在だったと感じます。

──先ほど鈴木伸一さんの名前があがりましたが、古川さんは手塚さんとも交流があったのですよね?

古川 マンガ家のグループでのつきあいと、1978年に手塚さんが初代会長として設立された日本アニメーション協会の手伝いを最初の頃からしていました。東アジア文化都市2019豊島の挨拶文にも書きましたが、手塚さんにくっついて上海美術電影という中国の国営のアニメーションスタジオを訪れたりもしましたね。そのときも必ずマネージャーが一緒にいて、手塚さんは飛行機の中でもずっとネームを描かれていて。多分、ホテルにいる時間も描いていたんじゃないかな……とにかく休むことなく、作品をつくられていた。日本アニメーション協会の設立当初は作家ばかりのごく少人数の集まりで、手塚先生は編集者が見張っている仕事場からこっそり抜け出して会議に参加するんですけど、「そんな忙しい中、会議に来なくても……」って思うんだけど、協会の活動にもすごく熱心でした。

──アニメーションの普及活動や、次世代の育成にも手塚さんは力を入れられていたのですね

古川 自分ひとりだけが何かをしてもダメなんだ、同じ分野にいる皆で盛り上げていかないと、ちゃんとした文化にはならないんだ——と、あと、マンガとアニメーションには国境がないと口癖のように仰っていました。
よくあれだけの作品を描きながら、そんなことまで考えられるな、頭の中は一体どうなっているんだろうと思わせる、本当にすごい方でした。

──東アジア文化都市2019豊島では8月から開催される謎解きウォークラリー『トキワ荘の記憶 消えたフクロウを追え!!』や、トキワ荘を再現する『(仮称)マンガの聖地としまミュージアム』の建設など、トキワ荘に関連した事業があります。現代においてトキワ荘に着目する意義を古川さんはどう考えていますか?

古川 新しい場所を作るにしても、そこで何をやっていくかということが大切ですし、新しくて面白いことが始まれば区民の人たちだってもっと賛同してくれると思うので、トキワ荘は名前だけを借りれば十分だと僕は考えています。もちろんトキワ荘を復元して記念のものを展示することも大切だけど、その中にある設備を使ってワークショップやハッカソンといったことをどんどん行なって、未来へと向けた新しいことが始まる拠点になって欲しいです。そうでないと手塚さんだって喜ばないと思いますから。

あとマンガ好きな人やマンガ家を志す人が、ネット上とは違うリアルで交流できる場所になると良いですよね。実はアニメーションだと、こういう拠点となる場がないんですよ。商業アニメーションの世界はスタジオ単位だし、ひとつの作品をつくり終えても、すぐ次の作品の製作が始まってしまうから交流をする余裕もない。僕みたいにフリーランスで活動しているアニメーション作家の拠点となる場所が欲しいとずっと思っているので、『(仮称)マンガの聖地としまミュージアム』でマンガに関する新しいことが始まるのはすごくうらやましかったりもします。

(トキワ荘通りお休み処にて撮影)


文・林みき
写真・平沼孝義


古川タク
マンガ・アニメ部門総合ディレクター
1941年三重県出身。アニメーション作家、イラストレーター、絵本作家。日本アニメーション協会会長。文化庁メディア芸術祭実行委員会運営委員。手塚治虫に憧れて、三重県での高校時代から漫画を描き始める。大阪外国語大学在学中にアニメーションに出会い、卒業後、久里洋二実験漫画工房に入社。1970年に独立して、タクン漫画BOXを設立する。フリーのひとコママンガ家、イラストレーター、アニメーション作家として活動。NHK「みんなのうた」やテレビCMのアニメーションも多数手がける。アヌシー国際アニメーション映画祭審査員特別賞、第25回文藝春秋漫画賞、文化庁メディア芸術祭優秀賞など受賞。東京アニメアワードフェスティバル2017にて、アニメ功労部門顕彰を受ける。2004年紫綬褒章、2012年旭日小綬章を受章。